院長プロフィール

《私の少年時代》
私は昭和43年に、大阪府北部の田園都市「交野市」に生まれました。
当時の自宅の周りは、自然が豊かで、田畑や野山に囲まれたのどかな環境でした。私は友達と、川で泳いだり、魚やサワガニ、ウナギを捕まえて遊んだり、山ではクワガタ虫やアケビを取ったり、ツルに捕まって遊ぶターザンごっこが大好きでした。幼い頃から
運動が大好きで、野山をいつも走り回っていました。

《陸上競技との出会い》
中学に入学すると走るのが大好きな私は、陸上競技部に入部しました。 先生の厳しい指導を受けて、走り幅跳び競技では全国の中学生によるジュニアオリンピック大会に2回出場し、全国6位の入賞を果たす事が出来ました。高校進学もスポーツ推薦を受けて、進学しました。そして走り幅跳び競技では、7メートル30の記録を樹立して、夢であった関西1位の座を勝ち取ることが出来ました。
大学進学もスポーツ推薦を受けて立命館大学へ進学しました。陸上部の選手として、そして強化編成部長としても、監督を支えながら選手の育成にも力を注ぎました。
今から振り返ってみても、私にとって中学以来、10年間も陸上競技をやり続けることで、厳しい練習で心身を鍛えて、自分の努力を実らせ、抱いていた夢がかなえる事が出来た幸せ一杯の充実した人生を送っていました。

《病魔に襲われ盲目となる》
大学を卒業後は、大手運送会社に入社、国際航空貨物部門の営業マンとして頑張って働いていたのですが、平成7年、過労が原因で髄膜炎を発症して両目の視力を突然失ってしまい、真っ暗闇の世界になってしまいました。正直言って夢も希望も全く失い、失意のどん底でした。
目が見えなくなって、何度も泣きました。失明宣告・視覚障害者との理由で会社からの強制解雇…。自暴自棄になりそうになった時も何度もありました。

《社会復帰を夢に生活訓練を受ける》
けれど一度限りの人生を無駄にしたくない、その一心でまず挑んだのが、平成8年8月に日本ライトハウスに入所しての生活訓練でした。怖かったのが白杖を用いての一人歩行でした。それまで何処に行くのにも家族の手引きで連れて行ってもらっていたので、一人で白杖を片手に歩くなんて怖くてたまらなかったです。違法駐車している車に何度もぶつかって怒鳴られ、階段から・溝に・川にも落ちた事もあります。一番怖かったのが、駅のホームから転落しそうになり、何度も死の恐怖を感じた事でした。視覚障害者の目である点字誘導ブロックの上に何台もの自転車がとめてあり、通りかかった私が白杖で将棋倒しさせてしまって、怒鳴られた事もありました。本当に目が見えなくなって幾度も泣きました。けれど、いつも心に「一度限りの人生」の思いを胸に秘め、目が見えなくても、もう一度人生にチャレンジしようと、頑張りました。

《日本テレビ「24時間テレビ」に出演》
次にチャレンジしたのが、平成11年、学生時代にしていた走り幅跳びでした、目が見えなくなって、走って跳ぶのは、本当に怖かったです。そんなチャレンジするのを日本テレビ「24時間テレビ」で特集されて、高校時代の後輩の森長正樹選手(走り幅跳び日本記録保持者・8メートル25)と、アースマラソン(地球一周)を成し遂げられた間寛平さん、そして元バレーボール全日本代表選手の大林 元子さん達と一緒に、頑張って跳びました。記録は、4メートル32でしたが、本当に嬉しかったです。全国の皆様から、多くの励ましを頂きました。

《NHK教育テレビ・きらっと生きるに出演》
そして、日常生活も、楽しくなり、次に挑んだのが、家での生活でした、お掃除、買い物、そしてお料理…。目が見えないのにどうやってするの?平成12年、NHK教育テレビ「きらっと生きる」にも出演させていただき、タイトル「僕の家事は100点満点」で、目が見えなくても、知恵と工夫で、やる気になれば、何事も出来るということを全国の皆様にお伝えできました。

《公共広告機構のテレビコマーシャルに出演》
そして、平成16年に、公共広告機構の「生命線」というタイトルで、私が点字ブロックの上に置かれた、自転車や立ち止まっている人にぶつかって、困りながら歩いている姿を映したテレビコマーシャルにも出演させて頂きました。常日頃白杖一本で歩いている、視覚障害者の思いを伝える事が出来たらと頑張りました。

《鍼灸との出会い》
この鍼灸の道への出会いとして、今振り返れば二つ挙げられます。まず、視覚障害者となって、意を決して挑んだ、日本テレビ「24時間テレビ」で全盲で走り幅跳びに挑戦した時、その練習時、踏み切って跳んだ後、砂場では無く、誤ってコンクリートに着地してしまい、両脚を強打してしまい、足首の捻挫・靭帯も断裂寸前となって、病院に行くと、絶対安静と診断され、足は即ギブスで固定されました。
そんな絶体絶命の中、私を救ってくれたのが、高校時代からお世話になっていた鍼灸院でした。足首も靭帯も、まるで象の足のように腫れ上がっていた私の足に鍼灸を施すと、その足の腫れも・捻挫の痛みも、嘘のように無くなり、24時間テレビの本番で無事跳べたのです。本当に嬉しかったです。自らもこの鍼灸の力に救われました。

《瀬古利彦さんからのビデオレター》
そして、もう一つの鍼灸の道への導きは、元マラソンランナーの瀬古利彦選手からのビデオレターでした。「僕が昔、足をケガしたとき、救ってくれたのは目の見えない全盲の鍼灸師さんでした…」瀬古さんのその言葉に私は目が見えないけど、もう一度、人の為に活かされていきたいと奮起しました。

《盲導犬フラッシュと二人で挑戦》
その一心で、私は、盲導犬フラッシュ(演歌歌手・中村美律子さんからの寄付の盲導犬)と二人で平成12年兵庫県神戸市にある国立視力障害センター・理療教育専門3年過程に入学して、それから3年間の寮生活と厳しい鍼灸師への猛勉強が始まりました。知らない街での生活と厳しい勉強…。目が見えない私を、いつも救ってくれたのはフラッシュでした。

《鍼灸師として活かされて生きたい》
その後、平成15年鍼灸師の国家資格試験に無事合格し、生まれ育った交野市に夢だったはり治療院 「宝命堂」を開院する事が出来ました。
本当に、目が見えなくなって、ここまで来るのに大変でしたが、これからは、一度限りの人生を、明るく・素直に・感謝の気持ちで、自分に出来ることを一つ一つ積み重ねて、治療家として頑張って生きていこうと思います。
それは、自らも髄膜炎で命を失いかけた体験者として、一人でも多くの患者様を救いたいからです。

《いつも出会いに感謝》
こうやって私の人生、波瀾万丈でしたが、この鍼灸の道に出会えて、心から感謝しています。今は、この鍼灸の道以外にも、社会に貢献させて頂きたいと、大阪府下の小学校 ・中学校を中心に、優しい心づくりの福祉教育の講師として、テーマ「目が見えなくなっても 夢に向かって生きる」を掲げて講演させて頂いております。